復活の栄光
イエスは最後の晩餐の前、ご自分の受難の前に、どのような死を迎えるかを示されました。
「人の子が栄光を受ける時が来た。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12.24)
「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。(12.27)
イエスは死に至るまで神に従順でした。このため神はイエスを復活させられました。イエスは私たちに復活を証して下さいました。
私たちがイエスを思うとき、特に四旬節から復活節では、このイエスの苦しみと、神に対する全面的な信頼とを深く見なくてはいけないのではないでしょうか。
つまり復活の喜びとは、試練や苦しみの中にあってもなお、神を信頼し、希望を失わず、ただ神の国を目指して走ることではないでしょうか。
イエスの復活に出会った者たちは、喜びによって変えられ、回心し、宣教へと駆り立てられます。
使徒パウロは次のように自分の体験を語ります。
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3.10-11)
また、復活の力について、教皇フランシスコは次のように語られます。
「つまり、真のキリスト信者とはこのような人たちです。泣き言ばかり言ったり、怒っていたりせず、復活の力によって、次のようなことを確信しています。あらゆる悪はいつまでも続かず、どんな夜も終わらないことはなく、誰も永遠に誤ったままではないし、どんな憎しみも愛によって打ち負かされないことはありません。」
イエスの復活は、私たちを解放させ、 希望を与え、聖霊によって私たちをつくり変えます。
この復活の恵みにあずかった私たちが、復活を目撃にした弟子たちのように、つくりかえられ、「出かけて」行き、イエスの死と復活、この「良き知らせ」である希望を、貧しい人々、つまり希望を見いだせない人々に延べ伝えること、これは「心の港」の使命にほかなりません。
イエスの命じる「行きなさい」という言葉は、常に私たちを駆り立てます。
私たちの存在により、希望を証しすることができますように、聖霊の導きによって助けられますように。
宮城徳久