2017年12月12日火曜日

準備中

待降節 第2主日


マルコ福音 11-8

神の子イエスキリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かかんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 

皆さん、
私たちは、待降節を主の降誕祭への準備の季節として見ていますが、主の再臨にも向かっています。そう言う意味では、私たちは常に“準備中”と言えるでしょう。
日本では、“準備中”と言う札があれば、まだ入れないと感じますが、同時に安心して、レストランや店が営業していると確認します。
私たちは一年中休業なしですね。お祝いを迎えるとき、目指している出来事への歩みを支えて、目的に達する確信を抱くでしょう。準備の状態の中にいる私たちは特別な務めを果たすべきと認識します。
しかし、そんなに長い期間なので、現在の状態に留まる危険が潜んでいます。今日、そうならないように洗礼者ヨハネとイザヤの声が私たちの役目、大きな役目を思い起こさせます。彼らの声に耳を傾けると何か緊急な呼びかけを感じます:今すぐ、この準備の為に力を尽くすよう私たちを促しています。彼らの見方から見れば、私たちは休暇を取ろうとしていたので、希望の務めに戻らせようとしています。希望は休みません。満たされるまで、安らぎを知りません。
第一朗読では、イザヤの預言はすでにこの確信を持っていました。彼にとっては、神は全てを新たにしてくださいます。過去の過ちなどに目を留めることはありません。ご準備のためにを慈しんで、皆に慰めと励ましを与えて、全ての約束を再び実現されると決心しているようです。解放された民は更に美しい希望に導かれています。これから、神さまは、自ら、民の為に羊飼いとなって、豊かに、平和のうちに、皆救いを味わって行くと預言者は力強く述べています。
主イエズスの到来によって、これが実現されました。では、もう“準備中”の札は外しても良いでしょうか。まだ、まだ。今も、神は働いています。み言葉では、私たちはこのわざに協力するよう招かれています。主イエズスの恵みのうちに、愛と平和に満たされている世界を調えている神と共に、私たちは力を尽くしています。
ずっと、“準備中”の札を見ている人々は、不思議に思っています:“一体どういう物が現れて来るのか”と期待するでしょうが、私たちは預言者の役割を持って皆この準備に加わるように働き人を募集しましょう。
私たちの心にある“準備中”の札を正しく読めば、待っている出来事の言葉で通訳すれば、回心の呼びかけです。しかし、普通、回心の響きは過去の生活に対して受け止めますが、待降節の間、将来に合わせるように招いています。私たちはいつも信仰の生活の中で一歩を踏み出して明日に向かって行きます。今日、始まりの日として見てみます。
今日のみ言葉は、私たちにマルコ福音書の聖書の言葉:“神の子、イエズスキリストの福音の始め”を伝えています。私たちは主の降誕を祝いとき、神の子であり、キリストであるイエズスの誕生を迎えます。彼こそ、福音、良い知らせです。彼のうちに新しい時が来た、新しい世界も生まれました。
私たちはこの新しい創造の完成に向かっています。神は何か始めたら、必ずこれを成し遂げると私たちはかたく信じています。途中で、投げ出す事はしません。例えご自分の民が罪を重ねたとしても、神は忠実に救いの計画を守ってくださいました。

ラトゥル神父(ドミニコ)





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